2024年11月19日。
この日、長女にもらった言葉から、絵ってすごい力を持っているのかもしれないって教えてもらいました。
この日は、一緒に暮らしていた生後6ヶ月のチャボ、ランちゃんが亡くなった2日後でした。
ランちゃんがいない寂しさ、喪失感に、私も子どもたちも沈んでいました。
特にランちゃんを可愛がっていた10歳の長女の悲しみは深くて、心をどう保っていいかわからない感じでした。
亡くなった当日は泣き叫んでいた長女。
その翌日は、日中は穏やかに過ごしているように見えました。お墓にランちゃんが好きだった玄米や柿を供え話しかけたり、お菓子作りをしたりしてのんびりと過ごしていました。
でも、その後、あたりが暗くなってくると寂しさが爆発して。
お風呂に入っている時泣き出して、その後も大声でランちゃんを呼んで泣き叫んでいました。
私はただ長女を抱いて、一緒にかなしみを感じていました。
そして翌日の11月19日。
この日の朝、以前から私が描いていたランちゃんのスケッチを、
私が見せたのか、子どもたちが見つけたのかは分かりませんが、この絵を娘ふたりがじーっと見つめていて。
「…ランちゃんそっくり。ランちゃんがいるみたい」
と言って、子どもたちは長いこと、絵を眺めていました。
その後、次女は保育園へ行き、風邪の治りかけで休みがちだった長女は自宅で過ごしました。
長女はずっとそばにランちゃんの絵を置いて、話しかけたり撫でたりしていました。
絵を見て過ごしながら、ランちゃんのお墓に花を供えたり、ランちゃんが好きだった玄米とか柿を置いてあげたりしながら、
ゆっくり休んでね。
また会いにきてね。
と話しかけていました。
おやつの時間になって、天気がいいから縁側で食べたら?と声をかけ、
私と長女で一緒に作った米粉の蒸しパンをお盆に乗せて運んでいくと、
長女は縁側に座布団をふたつ敷き、片方に自分が座って、もう片方にランちゃんの絵をそっと置きました。
蒸しパンを食べてお茶を飲んで、ぼんやりと庭を眺める長女の後ろ姿に、傾きかけた陽の光があたっていました。
その日の夕方。
暗くなってきても、長女は泣き叫ぶことなく穏やかに過ごしていました。
そして私に、
「お母さん、ありがとう!この絵のおかげで、さみしい気持ちが少し減ったよ。
ランちゃんがいるみたいなんだもん。この絵、きれいな額に入れたいな」
と言ってくれました。
とっても嬉しかった。
そして、絵ってすごい癒しの力を持っているのかもしれない、と思いました。
かなしみに沈んだこころに寄り添う、静かで力強い力が。
そして、中学生の頃早々に絵描きや作家になる夢を諦めた時のことを思いだしました。
当時の私は自己肯定感が低く、自分はわかりやすく誰かの役に立っていないと存在してはいけないと思い込んでいたので、
将来は世のため人のために役立つ人にならなければと思っていたのです。
絵を描くのが大好きだけど、絵ってなくても生活できるものだし、きれいだなあって思ってもその時だけで流れていく、お飾りみたいなものなんじゃないかなと思っていました。
だから、私はもっと役立つ意味のある仕事をしなきゃいけないんだと思って、心をギュッと固めて学校生活を送っていました。
そういう時期を経て、数十年経ったいま。
自分の子どもから、絵には力があるということを教えてもらえるなんて…。
しみじみと不思議な巡り合わせなような、でもこうなるべくしてなっているような。
子どもから、ランちゃんから、たくさんのことを教えてもらっています。